日本大学通信教育部・商学部・商業学科
教職課程レポート

科目「商業史」

課題1「三井家の歴史について(高利の江戸
呉服店開店から明治末期まで)述べよ」
課題2「近世商家における丁稚制度のあり方
と近代における店員制度のあり方を比較して
述べよ」

評価「合格・・・としか書いてなかった」

参考文献「なし。商業史の教科書をまとめた
だけ」

 三井家の歴史について

 三井家の歴史は三井八郎兵衛高利が松坂か
ら江戸に出て一六七二〜七三年に越後屋呉服
店を開いたことに始まる。その後一六八六年
までに江戸・京都に両替店を開き、京都に本
拠をおき、元禄初年までには幕府呉服御用達
、金銀御為替御用達を命ぜられ、大坂にも出
店をもって三都にまたがる御用商人としての
確固たる地位を築き上げた。
 呉服商としては従来の掛売りに対し、諸国
商人への卸売り、不特定大衆相手の「現金掛
値なし」の店前売り、現金取引きを行ったこ
とによる運転資金の高回転と、両替商として
の公金為替取組み請け負いによる公金の無利
子運用により発展した。
 しかしながら一七七〇年代をピークとして
それ以降営業財産は横ばいとなり、幕末にお
いては呉服業は不振となり、両替屋の利益に
よってかろうじて維持されていた。
 明治維新後は一八七六年三井物産が発足し
、三井銀行と組み貢米荷為替や官営三池炭坑
出炭の一手販売で発展した。また一八九〇年
前後に三池炭坑の払い下げと中上川彦次郎に
よる事業方針の近代工業方向への転換により
鐘淵紡績、芝浦製作所、新町絹糸紡績所、富
岡製糸場を経営し、王子製紙、北海道炭坑鉄
道を傘下に収め工業の三井として発展して行
った。

 近世商家ににおける丁稚制度のあり方と近
代における店員制度のあり方との比較

 近世商家の丁稚制度は幼年時代から丁稚と
して主家に住込み、手代、番頭、支配人など
を経て暖簾分けに達する雇用制度であった。
 まず十二〜一四歳で丁稚として奉公を始め
店および家内の雑役全般を引きうけ、同時に
読み書き算盤の教育を受ける。ただし仕着施
という小遣いを与えられるほかはおおむね無
給であった。
 一七〜十八歳で元服して手代手代となると
徐々に実務を担当し、自己の見込みで商売す
ることも許され、給金も定まり名前や服装も
かわって一人前の店員として扱われるように
なる。この丁稚・手代の期間に業務全般の修
練を受けたのである。
 そして手代の年期奉公期間を終えると番頭
となり、商売や家政についての大きな権限が
付与され、また給金以外に報奨金が与えられ
ることもあった。
 一定年限の丁稚・手代奉公を勤め上げると
主家での住込みをやめ、世帯を持つことを許
されて宿持となることが多かった、これを別
家制度といった。
 またその募集は、おおむね店主と同郷の出
身者であることが多く、つまりは店ごとに限
定されており、また男子に限られていた。
 近代の店員制度は仕着別家制、住込給料制
、通勤給料制の3つがある。
 仕着別家制━主家で寝食し、四季の仕着を
貰い、商業の見習いを唯一の目的とし、見習
期間を経過したのちは退店するにあたって相
当の資本または暖簾を受けて別家するもので
ある。
 住込給料制━主家で寝食する点を仕着別家
制と同一とするが、給料を受けることを目的
とするものである。
 通勤給料制━自宅から通勤して給料を受け
ることを目的とするものである。
 この中で就職希望者からもっとも望まれた
のが通勤給料制であり、大丸呉服店は一九〇
八年に全てを給料制にあらため、十合呉服店
も同年に仕着別家制を廃止し、番頭・丁稚の
呼称も廃止した。
 また募集についても丁稚制度のような幼年
期からの奉公という形式のみならず、学校出
身者の進出が見られ、庶務・記帳・調査には
学校出身者を、応接・売買・荷造りには丁稚
出身者を向けるのが普通になった。
 さらに募集方法も丁稚制度に見られる特定
地域からの縁故採用ではなく、新聞広告、店
頭広告、職業照会所、学校紹介によるものが
増加していった。
 また採用対象を男子のみに限っていた丁稚
制度と異なり、大正中期以降は銀行・会社の
事務員・タイピスト・百貨店や大規模小売店
の売子として女子も採用されるようになった。