日本大学通信教育部・商学部・商業学科
教職課程レポート

科目「商業史」

課題1「江戸時代、大坂が『天下の台所』と
よばれた理由についてのべなさい」
課題2「江戸地回廻り経済圏の成立とその影
響についてのべなさい」
課題3「幕末、金貨の海外流出はどのような
仕組みで生じたのかのべ、ついでその防止策
についても言及しなさい」

評価「合格・・・としか書いてなかった」

参考文献「なし。商業史の教科書をまとめた
だけ」

 江戸時代、大坂が「天下の台所」と呼ばれ
た理由について。
 「天下の台所」と呼ばれた理由は、一七世
紀後半に全国的米市場が大坂に成立し、そこ
で建てられる米相場が全国の標準となったこ
とによる。各藩は大坂に蔵屋敷を設置し、恒
常的に年貢米を廻送し販売することにより貨
幣獲得を行ったのである。
 江戸時代の領主経済は米納の年貢によって
おり、領主は農民から年貢米を収取し、自己
および家臣団の消費分を除いた残りを販売す
ることにより軍需品・衣類・調度品などを購
入しなければならなかった。
 一七世紀中ごろにおいては、全国における
特産物が五機内とその周辺に集中し、加工業
を主としてほとんどあらゆる生産物を生産し
ていた。したがってそこには人口が集中し、
年貢米の一大消費地が生まれることとなった。
そこで領主たちは年貢米をそこに廻送・販売
して貨幣を得、ついでその貨幣をもって諸物
資を購入したのである。
 その際、年貢米の廻送には水運に頼ること
が多かったので、これら機内を後背地に持つ
大坂は、畿内手工芸品と米を含む農産物の交
易の結節点となる性格を持っていたのである。
また大名貸や地方商人へ信用供与が上方商人
を機軸としたことも「天下の台所」と呼ばれ
た要素の一つである。

 江戸地廻り経済圏の成立とその影響につい
て。
 近世前期において江戸はその周辺に生産力
の高い農村を持たないことから、そこへの生
産物の供給は諸地方から行われていた。米に
ついては中部・東北・関東の諸藩から、一般
商品については大坂を経由して西日本から供
給された。
 しかしながら一九世紀に入ると常州・野州
の木綿生産の発展にともない繰綿生産がさか
んになり、上方綿を駆逐するようになった。
また醤油についても野田・銚子の醤油業の発
展により上方醤油を駆逐した。
 このような江戸地廻り経済圏の成立により、
大消費地である江戸への最大の供給地であっ
た大坂の地位を大きく後退させられた。
 幕府による経済政策は、各種物産を大坂問
屋商人の手を経て流通させることにより、そ
れを支配する方法で物価の統制を行っていた。
 そのため地方商人や生産者が直接消費地の
商人と取引することは直売・打越として厳し
く禁止していたほどである。
 したがって大坂問屋商人の支配力に依存し
て展開してきた幕府の経済政策は、その地位
低下によりあらたな転換を余儀なくさせた。
 
 幕末に金貨の海外流出が生じた仕組みと、
その防止策について。
 江戸時代の幕府貨幣は金貨・銀貨・銭貨(
銅貨)から成立していた。これは江戸を中心
とする「金遣い経済圏」と京都・大阪を中心
とする「銀遣い経済圏」が並存していたため
である。これらはそれぞれの流通圏に拘束さ
れることなく無制限の通用力を持っていたの
で、その交換比率が幕府により定められてい
た。
 幕末の安政五カ国条約の貨幣条項により幕
府には幣制自主権がなく、外国貨幣の国内自
由流通、内外貨・地金銀の同種同量交換や自
由輸出入が規定されていた。それにより洋銀
一ドル=一分銀三枚と等価であると公定され
た。
 しかしながら当時の国内の金銀比価は一対
五弱であり、保字小判一両=一分判四分=一
分銀四枚という関係であった。それに対して
国際金銀比価は一対十五であったので、海外
から持ちこんだ洋銀四ドルを一分銀十二枚と
交換し、さらにその一分銀を保字小判三両ま
たは一分判十二枚と交換し海外に持ち出して
売れば、前記国際金銀比価から三倍の洋銀を
回収できた。したがって大量の洋銀が国内に
流入し、かわりに大量の金貨が海外に流出し
たのである。
 それに対する幕府の対応策としては、まず
保字小判一両を三両一分二朱に、一分判を三
分一朱にそれぞれ歩増通用(一分銀との交換
量を減ずる)させ、さらに金の量を三分の一
に減らした新小判を発行して国際金銀比価へ
の平準化を図って金貨流出の防止策とした。