日本女子大学・家政学部通信教育課程・食物学科
教職課程リポート

科目「児童学概論」

課題「『第1章“子ども期”の発見と消滅』を読んで、アリエスの述べた『“子ども期”の発見』とはどういうことか、またポストマンの述べた『“子ども期”の消滅』とはどういうことか、章末の参考文献なども参考にして自分の言葉でまとめること。その上で、それらに対するあなたの意見を述べ、『子ども観』とは、結局どのようなことなのかを考察すること」

評価「(合格) コメント→いろいろ書いてあったが『出題の意図を勘違いされていらっしゃる』とか『あなたの子ども観を問うているのではありません』とか書いてあった」

参考文献「児童学概論の教科書、その他にネットで見つけたアリエスとポストマンの本の書評」

アリエスの「“子ども期”の発見」
 アリエスは、今日われわれが持っている「子ども期」という認識が、歴史的に見た場合必ずしも存在しなかった時代があるということを資料に基づいて立証し、それが自然的に存在するものではなく、社会の変革によって「発見された」ものであると唱えた。
 かつて「子ども期」が認識されていなかった時代には、子どもは親の介助が不要な年齢になるとおとなと混じって暮らし、いわば「小さなおとな」として扱われていたのである。「子ども期」という認識が存在しないのであるから、おとなと区別する必要がなく、むしろ早い時期からおとなと混じって暮らすことによって、より早い成熟が期待できたのであろう。また子ども固有の特長に気がついていたとしても、それはおとなになる課程で消えてしまうのであるから、そのようなものに関心を持つことの意味もなかったのであろう。
かつての我が国でも多くの場合、子どもはある程度手がかからなくなると、きょうだいの子守りや親の仕事の手伝いをさせられたり、奉公に出されたりしたという事実があるのであり、「小さなおとな」として扱われたという主張にはうなずけるものがある。
 しかし現代では、子どもがある程度手がかからなくなる年齢になると「学校に通わせる」のが常識になっている。義務教育は国家によって強制されているし、親も「それが常識であり、将来的に親や本人のためになる」と考えている。また「子どもは働かせない」「子どもは子ども同士で過ごさせる(遊ばせる)」というのも常識である。子どもをおとなと同様に扱ったり、子どもを働かせたりすることは原則的にない。また子どもは各種の権利を制約され、義務を免除されている。犯罪行為についても子どもはおとなと別扱いである。
 しかしながらそれらはすべて「子ども期」が発見されて、子どもがおとなと区別された対応を取られるようになったことを原因としているのであり、「子ども期の認識」が自然なことではないと気づかされたことは、非常に意義深いものがある。

ポストマンの「“子ども期”の消滅」
 ポストマンは、情報メディアの発達により子どもとおとなの差異がなくなったと主張し、その面から見た「子ども期」は消滅したと唱えた。
 おとなと子どもの違いを「情報の理解能力の高低」という面から見た場合、かつてはその能力の修得に長い期間が必要であり、その期間を経ないとおとなになれなかった。またおとながある種の情報を、子どもが適当な年齢に達するまで隠しておくという配慮も可能であった。しかしながらテレビのような「送られる情報を理解するのに高度な能力を必要としないメディア」の発達は、その期間を極めて短くし、また情報の隠匿を困難にしたため、結果的にかつて子どもの範疇にあった者が、おとなとさほど変わらない状態におかれることとなったというのある。
 テレビなどの映像・音声メディアの発達によって、かなり以前から「子どもが知らなくてもよい(と一般に考えられている)ことを知っている」という現象がいくらでも見られる。また「おとなが知らないことを子どもが知っている」ことも珍しくなく、さらに近年ではインターネット接続の普及により「ある程度の文章の読解能力」と「情報検索能力」を修得すれば、かつては相当の知識人や学者でもないかぎり知り得なかった情報を、子どもが知ることも可能となっている。これらの点から情報の種類や量においては「おとなが子どもにバカにされるような状態」も普通に見られるのである。
 もしも「ある種の能力が高い者がおとなである」という考え方に基づけば「おとなと同等か、より多くのことを知っている子ども」の発生により、子どもがおとなと等しくなって、子ども期は消滅したということも充分納得できることである。
 ただしポストマンのいう「子ども期の消滅」とは知識や情報に限られたものであり、いわば子どもが「耳年増」のような状態に置かれていると解釈すれば、「子どもが消滅した」というのはいささか大袈裟な表現であると思われる。精神面・肉体面に注目すれば、依然として子どもは存在しているのである。

「子ども」とは何であるか
 そもそも「子ども観」を持つには「子どもとは何であるのか」すなわち「子どもの定義や範囲」ということを明らかにしておかねばならない。それには「子どもはどのような点でおとなと異なるのか」ということが重要になる。そしてそれは「おとなとは何であるのか」ということを明確にすることをも意味する。
 一体何が「子ども観」の対象となる子どもなのか、何が子どもとおとなを分けるのかについて、子どもとおとなの違いの基準になりそうな事実をあげてみる。
 真っ先に考えられるのは「肉体的に成長しきった状態」および「性的に成熟した状態」を兼ね備えたものが「おとな」であるという考え方である。
これは外見からも客観的に判断しやすい基準であり「おとな」の条件の1つとして充分認められるものである。しかしながらこれのみをもって「おとな」とするわけにはいかない。肉体的な面からのみ「おとな」を定義することを許す場合もあろうが、少なくとも現代社会において、「おとな」には「肉体的な発達」の他に「精神的な発達」という基準が存在するからである。
 次に上述の「精神的な発達」を基準にすることが考えられるが、もちろんこれだけが「おとな」の条件になることはない。「肉体的な発達」が考慮されていないうえに「精神」そのものが客観性に欠け、その判断基準や確認方法も確立されているとはいえないからである。さらに「精神」とは固定的なものではなく、周囲の環境や状況で絶えず変化すると考えられるので、その変化によって「おとな」となったり、そうでなくなったりすることがあれば、非常にやっかいである。
 さらに「年齢」による基準があげられる。これはある年齢で「子ども」と「おとな」を区切るものであり、法や規則の適用などでよく見かける基準である。これも非常に客観的な基準であり、だれでも経年により「おとな」になれる(「おとな」にされる)という意味で「公平な基準」であるといえるが「肉体的な面」や「精神的な面」にまったく配慮がない点に問題がある。
「社会的な地位」による基準も考えられる。例えば「学生でなくなった」「結婚している」「子どもをもうけた」「働いている」「収入がある」などである。また「技術や能力」による基準も考えられる。何らかの分野で周囲から一人前と認められる技術や能力を有するような場合である。
 これらは個人の「地位」や「技術や能力」にのみ重きを置いた基準であり、これのみをもって「おとな」とするわけにはいかない。「地位」が変わったり「技術や能力」がなくなったり低下した場合に「おとな」でなくなるのでは問題があるからである。
 このように考えてみると、一体何が「おとな」なのか混沌とした状況に陥るのであるが、結局のところ各種の基準を勘案し、組み合わせ、適当な妥協点を見出すほかないように思われる。
 ここでは一応「肉体的にも精神的にも安定した状態になって、大きな変化が見られなくなった状態」を「おとな」ということにして、「子ども」とはその逆に「肉体的にも精神的にも発達途上であって、今後種々の変化が予想される状態」ということにしておく。

「子ども観」とは何であるのか
「子どもはおとなとは異なる」ことは自明である。したがって子どもをおとなと同様に扱ってはならないのも自明である。それには「子どもがおとなと比べてどのような特長があるのか」を知ることが必要になる。「子ども観」とは「子どもの教育や指導、扱い方や接し方の資料として活用するために、子どもの特長を明確化したもの」であるといってよいと思う。その特長に基づいて、おとなによる子どもへの種々の対応が決められる。
 それらの対応には「子どもはこうあらねばならない(強制)」「こうあってほしい(願望・希望)」「こうしてはならない(規制・制約)」などが考えられる。このように考えた場合、子どもへの対応の根拠となる「特長」を明らかにすることが非常に重要になる。
 またそれらの対応は、子どものおとなへの発達を援助する目的で行われるものでなければならず、子どもの発達の状況を確認し、もしも発達が阻害されていればその原因は排除されなければならない。
 この「子どもの特長」を観察する際、対象が乳幼児期であればさほど問題はない。この年齢の子どもは「極めて本能的で自然な子ども」だと考えられるからである。しかしある程度成長した状態では、いささか注意が必要になる。なぜなら親や社会が子どもの行動や反応に影響を与えていて、決して自然な子どもではないかもしれないからである。
 子どもは通常、親や社会によって指導されている。子どもに対して「やってよいこと悪いこと」を教育し、「子どもらしい行動」を取るように仕向けられているわけである。そのような指導は親自身の経験や思想が元になっていたり、あるいは社会からの要請であったりする。また親が積極的な指導を行わなくても、子ども自身がそれらの要請を自ら感じ取って受容しているケースも考えられる。したがって親や社会が子どもに指導している内容が、子どもの行動や反応に対して反映されているかもしれないということを充分考慮しなければならない。また親自身もかつては子どもであったのであるから、その経験や思想は結局社会によって与えられたものであるといえるので、子どもの特性を考える際には、社会の持つ子ども観にも注意する必要がある。